早坂有生のYALE

2016年にYale(イェール、エール)大学に学部生として入学した日本人、早坂有生のブログです。大学での出来事やアメリカ大学出願のことなどについて書いていきます。ご質問、ご要望、ご連絡は記事へのコメント(非公開設定です)にお願いします。

日本戦争映画

成人式でした!成人年齢の異なる中国やアメリカにいたのであまり成人したという実感はありませんが、高校の同窓会では久しぶりに旧友たちと話すことができ、リフレッシュできたかなと思います。帰ってくる家があり、迎えてくれる友人がいてくれることはやはりとても大事で幸せなことだと感じ、Yaleでまた心機一転頑張ろうという気持ちになりました。

さて、秋学期ドイツの戦争映画の授業を取っていたこともあり、この冬休みは日本の戦争映画をいくつか見ました。その感想を書きたいと思います。

  • 我が青春に悔なし:黒澤明、1946年

戦争期、自分の意思を貫き行動した女性が主人公の物語。GHQの民主主義啓蒙活動の一環として製作された作品です。黒澤明監督の作品はあまり見たことがなかったですが、カメラワークなどすごいと感じるところがたくさんあったように思います。「自由とは多大なる犠牲の上にあるもの。省みて悔いのない人生。」といったフレーズが繰り返し登場し、終戦直後の日本人全員に戦争への責任を問いかけているように感じました。主人公以外の、長いものに巻かれる人々と、自我を確立する主人公の対比は、ストーリー上だけではなくカメラワークでも表現されていて、例えばlow angleの多様により観客は主人公を見上げるように仕向けられています。観客=戦争の時代を生きた日本人は、自我を貫き省みて悔いのない人生を歩んだ強い主人公とは違うということを強調しているように感じます。映画の最初と最後はよくある対比となっていて、始まりの方では森の中を横にあてもなく走っていた主人公が、最後は「村の子供達に民主主義について教える」と言って車の荷台に乗って垂直に伸びる一本道を行きます。アメリカの占領政策、民主化政策に従っていれば安泰だということを示すような終わり方ですが、主人公が後ろを向いているのが気になりました。日本の、自分の意思で止めることはできない民主化政策、過去への未練、郷愁を暗示しているというのは考えすぎでしょうか。

  • 日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声:関川秀雄、1950年

インパール作戦での日本軍を描いた作品です。軍上層部=悪、兵隊=善という構図でしたが、一方で過去と現在の対比からなぜ戦争に突入してしまったかという一般人の責任を突きつけ、集団で抵抗しなければならなかったという結論まで出しています。戦争前のフラッシュバックの多様が、戦地という極限の状態と平和な現代に生きる観客とを結びつけています。ラストでは、兵隊たちが延々と殺されていき、そして最後個々から霊の姿が剥離し、集団となってカメラに向かってきます。戦争直後だからこその生々しさと衝撃があります。

ミャンマーで、日本軍兵士から仏教僧になる人が主人公です。直接的な戦争の悲惨さの表現はなく、それを間接的に描いていました。

中国の日本軍上官の不正を暴き成敗する話です。ラストでは急に中国軍との戦闘が始まりました。弟を上官に殺された兄が上官を自ら殺し仇を討って終わるという、民主主義的には逸脱している話でした。

天皇玉音放送が行われるまでの一日の内閣、軍の駆け引きを描きます。三船敏郎の陸軍相の迫力が凄かったです。陸軍の、本土決戦をするまでは戦争していないも同然という視点もあったんだなと思いました。天皇の映像面での神格化、例えば光を天皇にのみ当てる、顔を映さず体の一部のみ映す、というのは、神格化が許されなかったヒトラーとの大きな違いだと感じました。

坂本龍一北野武、デヴィッドボーイ主演の、日本軍と捕虜の友情を描いた話です。戦争映画ではなかったです。

ということで、見た作品について書いて見ましたが、全体に共通して言えるのは、どれも日本内の被害者、加害者を対象に描いているということです。その対象は、最初の日本人全員から、だんだんと日本軍、そして日本軍上層部、というふうに変化していきますが、いずれにせよどの作品でも善悪の議論、戦争責任の議論は日本内で完結していて、そこに日本が戦った異国は関与してきません。異国だけでなく民族、宗教的にも戦争をした、ヒトラーという”絶対悪”を要したドイツと違うようで似ているような、しかしやはり違う過去との向き合い方を日本はしていると感じました。

それにしても、初代ゴジラといい、やはり戦後すぐに作られた作品はその重さが違います。特に『きけ、わだつみの声』はゴジラと同じ伊福部昭さんが音楽を担当しており、とても重苦しかったです。最近は戦争で戦った兵士を英雄視するような映画が多いように思いますが、現実の戦争はそのようなものではないという思いを強く感じます。