早坂有生のYALE

2016年にYale(イェール、エール)大学に学部生として入学した日本人、早坂有生のブログです。大学での出来事やアメリカ大学出願のことなどについて書いていきます。ご質問、ご要望、ご連絡は記事へのコメント(非公開設定です)にお願いします。

人権は世界を救える?

全ての人間が生まれながらにして持つ権利、人権。今では至る所で人権侵害、人権尊重といった言葉を聞きます。今学期履修している文化人類学のセミナーでは、人権を一種の思想として捉え、それがどのようにこの世界での主流、共通言語になったかについて議論しています。生まれながらにして持っているということで、その歴史は古そうですが、実は人権が主流になったのは結構最近のことなのです。また、文化人類学と人権思想はもともと相性が悪かったのですが、最近はより多様なアプローチが登場し、文化人類学が貢献できることについても議論が拡大しています。人権思想を批判する声も最近高まっていますが、文化人類学的視点から、人権という考え方の可能性について考えてみたいと思います。

1948年の世界人権宣言が、人権という概念の発端だと言われていますが、その概念が実際に浸透し、使われだしたのは1970-80年代になってからのことです。そこには、アムネスティ・インターナショナル等の機関の運動もありますが、と同時に以前主流だった概念、イデオロギーが崩壊したという歴史的背景の影響も大きいと考えられています。具体的には、西洋の社会契約論的支配体制の失敗、そして社会主義国ソビエト連邦の崩壊です。どちらも政府が資源を再分配するという、政府と市民のトップダウンの関係の上に成り立つシステムでしたが、そこに綻びが生まれ、新しい正義の枠組みとして注目された概念の一つが人権思想でした。

人権思想では、人間個人個人が生まれながらにして権利を有するという考え方をするため、ボトムアップのアプローチが可能になり、さらに以前の市民性による権利の有無という統治の方法にも反論できるようになりました。一方で、人権思想は西洋の価値観の押し付けなのではないかという批判も生まれます。

例えば、中東のイスラム諸国が女性にスカーフ着用を義務付けることは、人権の一つである表現の自由の違反だと国連が批判したとすると、当事国からしてみれば、イスラム教の教義や文化をキリスト教文化の西洋が否定しているということになります。日本でも2次元での児童の性描写も児童ポルノで人権の一端である子どもの権利条約違反だと国連に批判され、日本の漫画文化を否定されているという話になりました。こういった事例は、それぞれの文化に優劣はなく、各々を尊重するべきという文化相対主義をとる文化人類学から言っても当事国に同情的になります。

しかし!ここで見逃されているのは、人権思想と人権思想の実践は異なるという点です。つまり、国連が人権思想を元に変化を促す勧告を実践するという行為は西洋の価値観の押し付けと見なされても仕方ないかもしれませんが、それは人権思想そのものが西洋の価値観の押し付けであるという結論に必ずしも結びつくわけではありません。実際、世界人権宣言は西洋以外の世界中の国の代表者が参加し、キリスト教文化中心とならないよう思慮されて作られたものです。

では、西洋の押し付けとならないような人権思想の実践方法はあるのか?重要なポイントは、本来人間個人個人が権利を所有しているというのが人権思想の根幹であるのに、上記の国連の例では結局議論が国レベル、国際レベルで、トップダウンの形で行われているという点です。逆に、人権を保障されず苦しんでいる人々が自ら自身の権利の享受を求め、国に訴えるという形ならば、それは当事国も西洋の押し付けと批判することはできません。

しかし現実問題として、そのようなボトムアップのアプローチは本当に変化を生み出せるほど効果があるのでしょうか?国際的な人権NGOや国際機関が、苦境に置かれている人々の問題を理解し、彼らに人権思想について教え、共に人権的アプローチで状況の改善を訴えるという形が一番効果的なように思えます。文化人類学も、このアプローチであれば貢献が可能です。苦境に置かれている人々個人個人の問題を分析するという作業は文化人類学そのものだからです。往往にして資金や人件に限りがある国際機関に変わり、文化人類学者が数年にわたるフィールドワークを元に資料を提供し、それを元に国際機関が現地の人々と共に人権を訴え変化を起こす。このような仕組みができれば、苦境に置かれている当事者たちの問題を効果的に解決できるだけの力が人権思想にはあると思います。