早坂有生のYALE

2016年にYale(イェール、エール)大学に学部生として入学した日本人、早坂有生のブログです。大学での出来事やアメリカ大学出願のことなどについて書いていきます。ご質問、ご要望、ご連絡は記事へのコメント(非公開設定です)にお願いします。

国に属さない人々その名はゾミア

私たちは皆国に属しています。最近も芸能人の脱税が発覚して話題になっていますが、脱税が問題になるのはそれが国民としての義務だから、つまり我々が国に属しているからです。今の世界は国家の集合で成り立っています。日本、アメリカ、イギリスといった国家により、陸地には全て国境が引かれ、国家でない陸地は南極を除いて存在しないように思います。しかし!東南アジアには国に属さない地域、ゾミアと呼ばれる場所があるのです。近現代の国民国家制により、国に属せない難民のような存在も生まれてしまっている訳ですが、一方でゾミアには自ら国に属さないことを選ぶ人々がいるのです(という主張をしている教授がイエールにいます)。国ではない陸地とはどういう意味でしょうか。国に属さないとはどういうことでしょうか。先日の東南アジアのセミナーで議論したことを書いてみたいと思います。

James Scottというイエール大学の教授は、東南アジアは元来高地・山地に住む人と平地に住む人に分かれてきたと主張します。近代的な国家の成立以前から、国家が成立するのは平地であり、常にどの国家にも属さない高地が存在してきました。それがゾミアと呼ばれる地域です。
↓ゾミアを示した地図。東南アジアの広範囲に広がっています。
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山に住む種族というと、何となく野蛮で近代化していないというイメージがあるのではないでしょうか。映画でも、よく山の民に助けを求めに行くというようなシーンがありますが、だいたい近代種族との関わりは薄く、暴力的で凶暴で力がすごいけどあまり技術は発展していなく頭も悪いというような描かれ方をしますよね。
↓映画『キングダム』に登場する山民族。高度な技術を持っている設定ですが、見た目や戦い方などは上記と一致しています。

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しかし、スコット教授はこれは平地で発達した国家が作り出した幻影であり、実際は「山の民」は「近代国家の繁栄から取り残された民族」ではなく、平地と高地の間には昔から人・物・文化の交流があり、両者には密接な関係があるのだと主張します。

まず、物の交流としては、山地で取れる素材、山地で作られる製品は平地の国家にとって重要な貿易商品でした。山地からの製品という物の交流は、平地の国家が繁栄する重要な要素だったのです。次に文化の交流としては、平地の国家は支配圏を高地に広げて行く中で、文明・近代化を高地にもたらすというストーリーを推し出しました。ただ、ここでの文明というのは、「平地の民族と同様の言語、農業、宗教、国家への納税・奉仕」という意味でした。つまり、山地の人々は野蛮というイメージは、平地の民族と違う、国家に属していない=野蛮というイメージを平地の国家が作り出したことによるものなのです。例えば中国の平地の国家は、高地に住んでいて国家に従わない人々を「生の野蛮人」、高地に住んでいるが平地の社会文化に従い納税を行う人々を「料理された野蛮人」と区別していました。どれだけ平地の国家に従っているかがその人々の近代化度合いと同義だったのです。

さらに、高地に住んでいる人々は昔から高地に住んでおり、平地とは違う人種であるという認識も間違いです。スコット教授は、高地に住む人の多くは平地の国家から様々な理由で高地に自ら移住した人々またはその子孫であると主張します。税を納めたくないという理由以外にも、軍からの徴兵を避けるため、疫病の流行から逃れるため、住む場所を求めて、等様々な理由で平地から高地への人の移動が起こりました。

これは昔あったことではなく、近代・現代にも起こっていることです。例えば、カンボジアでは1970年代以降の内戦やポルポト政権による虐殺により、多くの人々が山間地に逃げ込み、またポルポト政権弾圧後には政権関係者が逃げ込む等、多くの人の流出入がありました。

一方、技術や軍事力の発展によりゾミアでも国による国境の強化は進んでいます。今後国の支配から逃れることはますます難しくなって行くでしょう。セミナーで将来のゾミアについてどう思うか聞いたところ、「インターネットでしょ」という意見が出ました。確かにインターネットはどの国にも属さない空間であり、アメリカや中国などの国家はその支配圏を拡大しようと頑張っていますね。「ゾミア」というオンラインゲームを作ったら人気出そうだねという話でセミナーは終わりました。

今の世界に生きていると、国が存在しない世の中を想像することすらなかなかありません。自分にとって当たり前であることも、他の人や歴史的に見ると当たり前ではないということを改めて実感する授業でした。