早坂有生のYALE

2016年にYale(イェール、エール)大学に学部生として入学した日本人、早坂有生のブログです。大学での出来事やアメリカ大学出願のことなどについて書いていきます。ご質問、ご要望、ご連絡は記事へのコメント(非公開設定です)にお願いします。

パレスチナ難民キャンプ

参加しているプログラムの一環として、毎週ラングエージパートナーと会って話したりどこかに行ったりするというものがあります。僕のパートナーはヨルダン大学に通うパレスチナ系の大学生で、先週は彼女とパレスチナ難民キャンプに行って来ました。シリア難民キャンプと違い、住んでいる人も外部の人も出入り自由というのが特徴的です。行ったのはバカアキャンプという、世界最大の難民キャンプで、東京ドーム1500個分の土地に約13万人が暮らしています。アンマンからは車で20分ほどの所にありますが、見慣れたヨルダンの街とは大きく異なりました。とにかく広く、その一部を見ただけなので、キャンプの状況を正しく描写することはできませんが、僕の見たことを書きたいと思います。僕の中で特に印象に残ったキーワードは三つー環境、精神、子供でした。

キャンプと言っても特に外界と隔てる壁のようなものはなく、バスでキャンプ内の発着所まで行くことができます。発着所を降りると広がるのは八百屋や服屋など店が所狭しと並んだマーケット。ここはアンマンのダウンタウンとあまり変わらない様子ですが、全体的に価格が安くキャンプ外からも多くの人が訪れるそうです。また、どの店の売り子も男性というのも特徴です。「女性が働くのは良くない」という考えがヨルダン人以上に浸透しているというのは本当なのかなと思いました。(一方家庭収入や母子家庭の状況は芳しくなく、NGOなどの支援プログラムには女性をターゲットにしたものも多くあります。)

マーケットを抜けメインの通りを歩きます。交通量も多いですが、このような感じで道端に物を広げて売っている人が目立ちます。遠目ではわかりませんが、良く近くで見てみると、売られているものはマーケットには出せないような、薄汚れたおもちゃや洗濯しているかも定かではない古着。こちらはキャンプ内の人々をターゲットにしているようです。
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向かった先は彼女が通っていたという小学校。男女別制、二部制となっていて、国連の旗が揺れています。キャンプ内にはいくつか学校があり、それぞれ寄付してくれた国の名前で呼ばれているとのことで、彼女の学校は通称チャイニーズスクール、隣の男子用の学校はスイススクール。キャンプ内には他にも病院など、国連などの支援による施設がたくさん見られましたが、それもフレンチホスピタルなど、国名で呼ばれているそうです。

歩いていてもう一つ目に止まるのは、ゴミの多さ。道端には基本ゴミが落ちており、さらにはところどころ空き地にゴミがただ捨てられ、回収もされず放置されています。案内してくれた子も含め周りの人は普通にしていましたが、僕は臭いで吐きそうでした。
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通りを一本入ると、そこは車一台が通れるほどの道路を隔てて広がる住宅街です。家と家は繋がっており、トタン屋根は夏は暑く冬は雨漏れが激しいそう。
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ということでキャンプ内の簡単な構成を見て来ましたが、ここからは僕の記憶に残っているシーンを3つほど挙げたいと思います。

一つ目は、住宅街でタバコを吸ったりゴミの上を駆けずり回ったりしている5-12歳くらいの子供達。平日の午後3時くらい(アンマンではあまり子供を外では見かけない時間帯)にも関わらず、暇を持て余しているかのような子供達がそこら中でたむろしており、話したり駆けずり回ったりしていました。特にゴミが散乱している道路の上をビーチサンダルで駆けている5歳くらいの男の子、普通にタバコを吸っていて「Sir, do you want to smoke?」と英語で聞いて来た12歳くらいの男の子が印象に残っています。

二つ目は、先に紹介したゴミのたまり場の中で、おもちゃを見つけて遊んでいる父子。僕が息を止めて早く過ぎ去ろうとしている中、普通に遊んでいました。

三つ目は、小学校の校門の地面に描かれたイスラエルの国旗。
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生徒は、登校する際毎日これを踏むということです。

以上の難民キャンプの様子を読み、皆さんはどう感じるでしょうか?「故郷のパレスチナイスラエルに奪われ、70年経っても過酷な環境の元に暮らさざるを得ない可哀想な難民たち」?

僕にはそう単純には思えませんでした。

このキャンプの過酷な状況について、パレスチナ難民の住人たちは完全に被害者なのか?例えば、ゴミをもっと分別して、道路に捨てたりせず、清掃を心がけることはできないのか?子供達は、なぜ家で勉強せずにその辺でたむろしているのか?住居はなぜ所狭しと並んでいるのか?豊富な資金援助を使って再開発できないのか?

現実的にゴミ回収のサービスを頼む資金がない、ゴミを回収しても持って行く場所がない。勉強してもここの学校教育のレベルでは大学に行けるほどの学力はつかないし、キャンプの外に出て行けるような職を見つけられる可能性も少ない。援助は十分ではなく、家を建て替える余裕などない。

ゴミをきちんと処理するのは面倒だし別にその辺に落ちていても気にしない。勉強するのは嫌いだし、大学に行かなくても援助はもらえるからなんとかなるだろう。ここは難民キャンプという一時的な滞在の場所であり、再開発は即ち定住を意味し、故郷への帰還という希望を喪失させる。

僕がヨルダン人や、パレスチナ難民の支援に携わる方々に聞いて得た答えはこの両極端の間に位置するようなものでした。ただ、ここで「パレスチナ難民はただ可哀想な存在なのではなく、自分たちで自分を苦しめている部分もあるじゃないか。支援を減らしてもっと自分たちで努力するべきだ。」と結論づけるべきではないと思います。

後者の、どちらかというとパレスチナ人たち自身に非があるという答えに共通するのは、どれも彼らの精神的な問題と関係しているということです。彼らのゴミ処理に対する考えが変われば、自主的にもっと綺麗にするようにするかもしれない。将来への希望が見出せれば、勉強を頑張るようになるかもしれない。パレスチナ問題という複雑なアイデンティティクライシスに精神的に立ち向かえるようになれば、もっとキャンプを良くしようという動きが活発になるかもしれない。そういった意味で、物理的な支援と同様に、或いはそれ以上に精神的な支援というのは重要なのではないかと感じました。

とはいえ、2時間ほど滞在しただけの僕にはこのキャンプで生まれここで育った方々の苦労や気持ちなど想像もできません。故郷を追われ「難民」という一時的な不安定なステータスのまま70年が経ち、未だに難民キャンプで暮らしている人々がいる。そのステータスや心理はそこで生まれ育った子供達にも受け継がれ、連鎖は続いている。その現実を突きつけられたことへの衝撃が、一番の印象です。
↓広場の壁に描かれたたくさんのグラフィティの一つ。少女はパレスチナを象徴している。
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