早坂有生のYALE

2016年にYale(イェール、エール)大学に学部生として入学した日本人、早坂有生のブログです。大学での出来事やアメリカ大学出願のことなどについて書いていきます。

YaleのDiversityとは?

先日、Yale大学の新入生選考プロセスにおいてアジア系アメリカ人が不当に差別されているという嫌疑がかけられ、当局が調査を開始したという報道がありました。少し前にハーバード大学においても同様の問題が発覚し、具体的な選考プロセスの公開という結果に至りました。日本でも医科大学における男女差別がニュースになりましたが、課外活動やエッセイ、推薦状などの総合評価で合否を決めるアメリカの大学における人種差別とは何を意味するのでしょう?そもそも、アメリカの大学では多様性を重視しているとよく言いますが、それは具体的には何を意味しているのでしょうか?
↓Yale大学の多様性をまとめたパンフレット
https://admissions.yale.edu/sites/default/files/files/class_profile_2021_final.pdf


ハーバード大学の公開した選考プロセスによって明らかになったのは、選考の過程で応募者の課外活動、受賞歴、エッセイなどそれぞれの項目は点数化され、それを基準に選考者の感性を取り入れ合否判断を下しており、その点数化の過程でアジア系アメリカ人は一律減点されていたという事実でした。つまり、白人と同程度の応募内容であっても、アジア系アメリカ人は低い点数を付けられ、合格の確率を下げられていたということです。

このように、選考過程で人種により異なる対応をすることに対する擁護派の意見として、「キャンパスの多様性を確保するため」というのがあります。人種による振り分けを考えなければ、アジア系の割合が高くなりすぎ多様性を達成できないのだから仕方がない。アファーマティブアクションにより黒人貧困層などマイノリティを優先して合格させているように、逆に多すぎる人数を抑制するのは妥当だ。というような意見です。

これに対する反論として2つほど挙げられます。一つ目は、多様性を主張するならまずは白人の割合を減らすべきというものです。アメリカの大学では、レガシー制度というものが存在し、その大学の卒業者や寄付者、教授の子孫を優先して入学させるというシステムが確立しています。特に私立大学は卒業生の寄付によって成り立っている部分が多いため運営側からすれば大学存続のために必要な制度とも言えますが、問題は卒業生のマジョリティは白人という点です。例えば、Yale大学に黒人が入学できるようになったのは1950年代、女性が入学できるようになったのは1960年代で、今でも学生の黒人率は20-30%程です。つまり、キャンパスのマジョリティは白人である中で、更にレガシー制度によって実質的には白人に対する人種の優遇措置がなされているにも関わらず、「多様性」という名の下にアジア系だけを抑制するのは理にかなっていないと言えます。

二つ目の反論は、そもそもキャンパスの多様性とは何なのか?いくつかの項目において数的に多様ならばそれで良いのか?というものです。大学側は、多様性のアピールとしてよく数値を用います。例えば、上記のようなアメリカの大学のパンフレットはよく人種の割合、奨学金受給者の割合(=学生の経済的多様性)、留学生の割合と出身国の数、宗教、セクシュアリティなど様々な項目における「多様性」を数値によってアピールしています。しかし、数の上で多様ならばそれで良いのでしょうか?重要なのは、その多様な学生が声を上げ活動できる環境が整っていることではないでしょうか?例えば、例えトランスジェンダーの学生が数的に多くとも、大学内に彼らが使用できるトイレやシャワーがなければ意味がありません。イスラム教徒がいても、祈りをあげるスペースが確保されていなければ意味がありません。

事実、大学がやたら人種の多様性を数でアピールするのは、実は白人の優位性を保つためではないかという指摘もあります。数的にトランスジェンダーイスラム教徒を確保しておけば、環境が整っていなくても対外的には批判されず、逆にマイノリティのプレゼンス向上に貢献していると思われる。しかし実際は白人が学びやすく力を持ちやすい環境は変えない。

というような議論を先日のComperative Ethnic Studiesの授業で扱いました。アメリカの大学(特にYale等)は人種差別反対の学生を後押ししてくれるリベラルで協力的な機関だと、入学してからずっと思ってきましたが、キャンパスでの学生運動の歴史や上記の議論を経ると、そうでもないような気がしてきました。「白人の権限を保守し学生の反秩序的行動を抑制する権威的機関」というと言い過ぎかもしれませんが、今年のYaleの入学式での学長のスピーチを見てみると…
"Over the past decades, Yale has opened its doors wider and wider. We have expanded the circle of belonging. Yet despite our differences and diversity, we have at least one very important thing in common: we all share Yale. No matter where you are from, or who you are, or your path to arriving here, now you are—among other things—a member of this community. You belong here. You are citizens of Yale."

僕も新入生の時は、この多様性溢れるYaleというコミュニティの一員になれるんだ!と嬉しく思ったのを覚えていますが、よく考えると「Citizen of Yale」はなかなか怖い表現です。Yaleを国、学生を国民と捉えるのは、つまり大学の権限を揺るぎなきものにし、国民である学生に反抗を許しません。

日本でも留学生や両親の少なくとも片方が日本人ではない人口は増え、性的マイノリティや経済格差を考えるのもブームになっているのを鑑みると、大学が「ダイバーシティ」をアピールするようになる日も近いのではないかと思います。日本では何を以って多様性を評価するのか、考えてみる必要があります。